Seasonal Journey 〜Invitation for scent〜

墨に漂う一縷の香り鈴鹿に伝わる墨のこと

2015.01.15

硯に向かう時間、感じる香り

心静かに硯に向かう。すりたての墨の香りが清々しい。墨をする時間はなんとも贅沢で、するたび、深まる香りに包まれる時間だ。もちろん、その魅力は色や書き味なのだが、そういえば“墨にも香りがある”ということに気づき、その静かな魅力にも引き込まれる。

冬のあいだの墨作り

墨は冬の間にしか作られない。膠(※)と煤を混ぜ固めて作る製法のため、膠が痛まないように寒い季節を選んで作られる。墨をすったときの高貴な香りは、膠の臭いを緩和するために使われる香料の香り。特に清涼感ある香りは、インドやマレーシアなどを原産とする「竜脳(りゅうのう)」の香り。竜脳とは竜脳樹の隙間に析出した結晶のことで、古よりその香気から防虫剤や防腐剤として使われてきた。香りの世界でも馴染みのある香料だ。

墨には大きくわけて、松から取った煤を原料とする「松煙墨(しょうえんぼく)」と、菜種やごまなどの植物油の煤を原料とする「油煙墨(ゆえんぼく)」とがある。墨作りが盛んな奈良では「奈良墨(油煙墨)」が名声を極め、今も古い墨屋さんが残っており、その伝統を伝えている。一方、三重県の鈴鹿に松煙墨である「鈴鹿墨」を作りつづける工房がある。鈴鹿墨は鈴鹿の山々の松の松煙を原料に作られたことが発祥とされる、伝統の品だ。

深い黒の静寂

墨を作る工房は漆黒の世界。
あたりにあるもの全てが、煤の深い黒に包まれる。静寂の中、ひんやりした冬の空気とにおいが気持ちいい。墨作りの朝は早い。早朝4時。膠を解かし膠液を作るところから始まる。煤と膠液を混ぜ合わせ、練り上げていく。練り上がった粘土状の墨は木型に入れて形が整えられる。墨の表面に入っている名や絵柄はこの木型に彫られたものだ。こうして一日に150から200個の墨が作られるという。形づくられた墨はまだ湿気を含んでいて、柔らかい。灰に埋めてゆっくりと湿気をとったあと、3ヶ月から4ヶ月かけて自然乾燥させる。春から夏にかけては乾燥の季節。割れないようにじっくりと時間をかける。

職人の手

以前からずっと思っていたことではなかった。それでも、家業の後継者がいないことを目の当たりにしてからの行動は早かったという。伊藤晴信さんは、祖父の代からつづく鈴鹿墨作りの道を継いだ。墨作りをする親の後ろ姿をみて、同じ苦労をしていくことを決めた。2010年より、二代目である父とともに日々墨作りに励んでいる。「墨作りで大切なことは、経験に裏付けられた職人の勘。鈴鹿の天然水を使って作る墨は、その水の加減も重要です」。そう話す晴信さんの手は、墨の色が染みこんだ職人の手をしている。鈴鹿墨では、分業ではなく全ての行程を職人ひとりが行うため、行程ごとに微妙な加減を調節できる。ゆえに職人の勘が問われるのだ。

先人たちの足跡

墨作りというと、墨そのものの製造ばかりを思い浮かべていたが、晴信さんは墨の表面に模様をつける木型の彫りや、金箔を蒔くことまで手がけるという。やるからにはその技術を高め、極めたいと挑む彼の思いが伝わる。「墨を使って何か新しいことを始めようとすると、そこにはもう先代たちの足跡がある。伝統を守るだけでなく、これまでもずっと色々なことに挑戦してきたことに、そこでようやく気づかされる。でも、そこからさらに新しいことを見つけ、挑戦していくことが楽しい。それが墨作りを続けていきたいと思う理由でもあります」


ひするごとに香りに包まれ、色濃くなる墨。
決して短い時間ではない。かけた時間と、その時間を静かに持つことが、忙しない日々を振り返らせてくれる。冬の間にだけ作られる墨。香りに包まれるたび、あの漆黒の工房を思い出す。

SPECIAL THANKS

有限会社 進誠堂 ホームページ




※膠(にかわ)
…動物の皮革や骨髄から採られる強力な糊のこと。




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